第一章 開幕

鐘が聞こえる。
どこから聞こえるんだろう・・・。
塔が見える。
まるで教会の鐘楼のような・・・。
周りを見回してもどこでなっているのか解らない。
鐘を探さなくちゃ・・・。

だが鐘はどこにもなかった。あるはずもない。
ユウイチが腰掛けていたのはセンター街の時計台の下、聞こえるのは雑踏と喧騒だけだ。
・・・昔の夢を見ていた気がする。 まだ幼い俺は、大きな螺旋回廊を通って・・・。
随分長い間ここに座っていたようだ。
太陽は随分傾いていたし、路上の人通りもまばらだ。
笑いながら駆けていく小学生の一群。三人並んで歩く女学生。
つまらない日常。
ポケットから煙草を取り出し、火をつける。
チョコレートフレーバーのこの煙草は絶版で、もうどこにでも売られているものではない。
買い溜めしておいたものもあと二つしかない。
それが切れたら当分煙草はやめるつもりだ。
肺まで吸い込んで、ゆっくりと吐き出す。
たなびいて流れていく煙は絹糸のような軌跡を残して大気に拡散していく。
未だ濁って溶け切らない白い筋を残して立ち上がる。
一秒だってここには居たくなかった。
この街は人の心を錆付かせる檻のようなものだ。
酸化してしまった心はどうしようもなく重くなるし、足だって地面に張り付いて走れなくなる。
でも、この箱庭を抜け出したって、その外にはきっともうひとつ大きな監獄が待っているだけなのだ。
人は、誰も、繋がれている。

短くなった煙草を携帯灰皿に押し込めて立ち上がる。
まっすぐ家に帰る気分にはなれなかった。
人の流れにそって商店街に向かう。
家からは反対方向になるがユウイチは商店街を抜けて町の裏手の丘に登ることにした。
レンガを敷き詰めた商店街の床は白と赤のレンガが交互に並んでいる。
雑踏を避けながら白のレンガだけを踏んで歩く。
赤のレンガを踏むとその下はきっと奈落で、真っ逆さまに落ちてしまうに違いない。

見慣れた商店街のゲートを抜けると住宅地に挟まれた緩やかな傾斜になる。
サザンカが咲く庭を脇目に坂を上る。
頂上には今はもう寂れてしまった神社だ。
ここまで登ってくる者はほとんどいない。
ここから眺めるミニチュアみたいな街が好きだった。
見ると、マザーボードみたいにたくさんのビルが立ち並ぶ景色のむこうに太陽が沈むところだった。
火の色に染まっていた街が綺麗なグラデーションを描いて紫、そして夜の黒へと変わっていく。
ユウイチは、その最後の灯火が消えるのを待って、その場を後にした。
人間の作った無数の明かりが照らし出す檻へと。

自宅には明かりがついていなかった。
母はまだ帰っていないようだ。
ユウイチには父親がいない。
幼い頃に他界したと聞いている。
ユウイチはもうその顔をうっすらとしか思い出すことができない。
母はユウイチの目が父に似ていると言う。
年を追うごとに父に似てくる息子を喜ばしいと言う。
彼にはそれがとても嫌だった。
自分は父の代わりではない。いつもそう思っていた。
だがユウイチは怒ることはなかった。
母は自分に期待している。期待を裏切ることはできない。
自分に出来ることは、自分の為に身を削って働く母に微笑んであげることだと思ったからだ。
彼にはそんな自分がとても嫌だった。

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